飛流直下三千尺(小さなことにこだわりそうになったら)
人はどうしても自説にこだわっつてしまう。
それも小さな、つまらないことに。そんな時は大きな滝の下に立つことだ。大音響を立てて虹を作り白煙を舞い上げながら落ちてくる滝は、心を洗ってくれる。 李白は廬山の瀑布を見て詩を作った。
飛流直下三千尺疑うらくは 是れ銀河の九天より落つるかと。
死ぬつもりでコロンビアの大瀑布に来た人がその滝のあまりの雄大さにのみ込ほれて、死ぬことを忘れてしまったという。ひとの心のこだわりなんて小さなものだ。実体なんてどこにもない。すべて弱い心が勝手に妄想を作りあげてその妄想の中でもがいているにすぎないのだ。飛流直下三千尺の下に立って般若心経でも大声で唱えてみれば心はすっきりと晴れる。よし今年は 平湯大滝(高山市平湯温泉)で挑戦してみるぞ。
有終の美
有終の美には飾るという言葉がつけられて 終りを立派に締めくくる意味で使われています。 これに似た言葉に「終わりよければすべてよし」というのがありますがこちらは結果が良ければ途中は問わない。というので目的のためなら手段を選ばず。というのは歓迎できません。
有終の美というのは詩経の中に語源があるよう、はじめ有らざるなし、よく終りあるすくなし。物事の初めは誰もが努力するけれども その努力を最後まで維持し、 終りを全うする人は少ない。と言うのです。
ここから有終の美ということが 導きだされたのですが詩経の中には, 「有終」の文字はありますが 「美」という字は無いのです。言うなら「有終」の中に「美」を 見出したところに日本人の感性があり、美意識があると言えるでしょう。
日本人は今を盛りに咲く花の美しさもさることながら、むしろその花が散りゆく姿こそ美しいと感じる美意識があります。詩経が戒めているように一瞬のやる気ならだれでも持てるが、持続するやる気は深く認識したもののみに宿るものであり、初心を貫くことは容易ではありません。だからこそ有終の美を飾る。ということが 称賛されるのでしょう。
死ぬときは箸置くように草の花という句があります。御馳走をいただいて箸を置くように、人生においても「御馳走さま。有難う。」と言って死ぬことが出来たらどんなにいいでしょう。もしかしたら仏教でいう涅槃寂静というのは「有終の美」を飾る深い安らぎの世界に死を迎えることなのかもしれません。
住職合掌